珈琲について

わたしは珈琲を1日に四杯は飲む。目覚めの一杯、読書の一杯、食後の一杯、寝る前の一杯、これがわたしが幸福ですごす為のスパイスである。深煎りのブラックコーヒーは剛健で男らしい味わい深いがなんとも魅力的だが、浅煎りでミルクをたっぷり入れたコーヒーの麗しい婦人のような味わいの方がわたしは好きだ。

豆の種類をこだわる人も多いが、わたしはそこにこだわりを持たない。むしろ誰とどんな時に飲むかを重要視する。わたしにとってコーヒーは、人と人との関係を滑らかにするための潤滑油であり、豊かな時間を過ごすために欠かせないものなのである。

芸術作品においてコーヒーは重要視されており、その多くは煙草と共に表現されることが多かった。文学については次回述べるものとして、ここで論じておきたいのが映画における煙草と珈琲のありかたである。珈琲については、アラブを舞台とした映画のなかで意味を持つ場合が多い。「アラビアのロレンス(1962」「異邦人(1967」「カサブランカ(1942」これらはいずれもアラブ圏の映画である。お酒の代わりに珈琲を飲みながら談笑する文化があるアラブ圏ならではの表現のしかたであろう。さて珈琲で何を表現するのかと云うと、これは登場人物の微細な心情の変化である。荒々しくグラスを置くことや強く啜ることで、粗暴さや怒りを表したり、ウェイターに「ミルクをたっぷりいれてちょうだい」(カサブランカ)と注文することで、か弱さや女性らしいさを表現する場合がある。ともあれ珈琲一つでこれほどまでに表現するとは見事なものである。

他方、煙草については珈琲よりも多くを語ってきた。戦争映画等では、煙草は何よりも重要なものであった。特にベトナム戦争以降の作品では映画において煙草が現れることはめっきり少なくなったが、それでもその意味は、文学において多くを語ることのできる存在として重宝されている。

嗜好品である煙草と珈琲、それは近年の健康志向の流れもあって冷遇されている。とくにそれは煙草において顕著である。嫌煙団体の抗議を受けて、時代の流れを受けて、少しずつ描かれなくなってゆく煙草。多様性や表現の自由が尊重される時代に一つの意味を排除してもいいのか。多様性を認めず窮屈になった世の中が行き着く先はどこなのか。わたしは煙草一つにしても、このような風潮や雰囲気は少々危険なものだと思っている。世界で最初に政策として嫌煙活動を始めたのはアドルフ・ヒトラーである。重ねて述べるが、社会の潤滑油やゆとりを阻害した先にあるのは自由で平等な社会か、わたしたちはもう一度これらを考えなければならない。

ともあれ、煙草の描かれない文学や映画は、わたしにとってコーヒーのない人生のように寂しくて味気ないものである。コーヒーが冷めてきたので今日はこれくらいで筆を置くことにする。(1178

自然の神性について

わたしは特定の信仰を持たない人間である。ただ、神の存在については根元的な感覚において感じている。それが自然のなかで受けることもあれば、或いは特定の教会の中で存在を見出すこともある。要するに、特定の感性においてのみに特定の形として想起されうる神が、私の中には存在しないということなのである。感じることのできる漠然とした存在は、ただもってしてこの肉体の中には決して現れないのだ。

しかし、これらの感性ないし感覚は人知を超えた多いなる自然を前にすると、往々にして呼び起こされる。それが精気に満ちた大木であったり、どこまでも豊かな森林や、果てしない海や、それはさまざまであるが。良くも悪くもわたしは極めて日本的な感性を持っているのだろう。

わたしの未熟な頭では到底理解できない素晴らしき神はいつの日か私のなかに特定の感覚として見いだせるのか。わたしにはまだ分からない。

文学について(成立、批判)

名作の誉れ高い作品の多くは過去の作品を踏襲している場合が多い。例をあげればきりがないが三島由紀夫の傑作「豊饒の海」は「浜松中納言物語」のテーマである輪廻転生や物語展開をそのまま現代風に書き換えられている。さらに云えばこの「浜松中納言物語」も「源氏物語」に多大なる影響を受けて成立している。このように文学は前時代の作品を踏襲して書かれて来たのである。

これは同じ言語間の事柄に限ることではない。文学は常に他方面からの影響を受け続けてきたのである。一例ではあるが太宰治の「斜陽」もロシアの文豪チェーホフ桜の園」のエッセンスを抽出し書かれている。このように作品同士が共鳴しあって成立しているだけでなく〇〇主義と呼ばれる我が国の文学運動もやはり国内外を問わない他方面からの影響を受けている。志賀直哉を主体とする白樺派などがトルストイヒューマニズムの影響を色濃く受けて成立しているという過程などからもこれらは理解されうるだろう。

本筋から逸れるとまずいのでこれくらいにしておくが、ここで重ねて強調しておきたいのが文学は互いに影響し合って紡ぎあげられてきたということである。ネット場で散見される自称小説家達の作品を読めば過去の作品から学ぶことの重要性が痛いほど分かるものである。

上記の例はあくまでも一例なので他に知りたい方は各自で調べてください)

美しさとはなんであるか

美について私はまったくの無知である。美は一つの形として存在するのか、はたまた概念として認識されうるものであるのか、それらは人類の叡智のすべてをもってしても解決されることのない問題であろう。ただ、不思議なことに、その対象を捉えた時、例えばそれが絢爛な建築であったり、強靭な肉体であり、豊かな自然であったり、それは様々であるが、その瞬間に確固たる美の鱗片を私たちは見ることができる。もっと適切な表現を使えば''感じ''とることができるのである。これは感覚的な事象となるが、それらの対象から抽出された美は、個人の中へと流入されたと同時にわずかな恍惚をともなって矮小化されるのである。これでは、美は我々の精神の内側にのみ存在するものとなってしまう。ともすれば、美はもっとも独占的で排外的な醜悪さと同義となりうるのではないか。

美は空虚な理念にすぎないのか。美しさとはなんなんだ。いっこうに理解できない。

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